戦争映画の一方的評論
 
「レニングラード攻防戦 評価★★★★ 飢餓の忍耐の900日 
БЛОКАДА
BJIOKAJIA

1974,1977 ソ連 監督:ミハエル・エルショフ
 カラー
第1部・第2部 (1974) 184分
第3部・第4部 (1977)167分

 1から4の4部作になっており、2部づつ2回に分けて上映されている。第3,4部は「レニングラード攻防戦II  攻防 900日」というタイトルで公開ビデオ化されている。本DVDはそれをひとつにまとめたもの。1部から4部は1941年の独軍によるレニングラード攻撃開 始から、レニングラード解放までの900日間を時系列で描いており、通して視聴する必要がある。ソ連映画の特徴として、膨大な物量と人的資源を活用したス ケールの大きい撮影を行ったものであり、実際にレニングラード市民がエキストラで多数出演している。ただ、同様にソ連映画の特徴で、民間人や軍人の数人を 主役に仕立てて、彼らの行動をメインに描いてはいるものの、全体に抑揚がなく、ノンフィクション的な単調な展開が続くのでやや映画としてはダレる傾向があ るのは否めない。
 レニングラードはソ連北西部のバルト海に面した都市であり、ピョートル1世が起こし1712年から1918年まで帝政ロシアの首都であった。1924年 レーニンの死後にレーニンの名を冠してレニングラードとなった。現在はサンクトペテルブルクという名称の都市に戻っている。北側をフィンランドと接してお り、海運、軍事の要衝として機能していた歴史的都市である。ヒトラーの独軍は、軍事的拠点としての重要性もさることながら、ソ連共産党の祖レーニンの名を 冠した都市として、意地でも占領を目論んでいたのである。

 (以下ネタバレ注意)
 第1部
 1940年ソ連共産党大会、スターリンは来る対独戦をにらみ兵器の新開発、近代化戦へ力を入れることを決意する。だが、ソ連軍情報部はフィンランド国境 にドイツ軍が終結していることを察知してはいたが、スターリンらは西方面で連合軍と戦っているドイツ軍が東方での2面戦争に踏み切ることはないだろうと高 をくっていた。キエフ軍管区でドイツ兵捕虜の情報を得てもなお、挑発に乗ってはいけないと守備隊の増強には応じなかった。
 しかし、1941年6月22日ドイツの電撃的侵攻により独ソ戦が始まる。革命発祥の地レニングラードに向けては、北方軍司令官リッター・フォン・レープ 元帥が担当し、ヒップナー大将の第4戦車隊の先遣突撃隊長をダンビッツ少佐が努めた。ダンビッツ少佐はヒトラーの覚えが良く、任務に忠実であった。ダン ビッツ少佐率いる先遣戦車隊は次々に戦線を突破していくが、要塞等に立てこもるソ連兵は絶対に降伏しないという強さにも直面し驚愕する。
 一方、スターリンは予想外の進撃に動揺し、しばらくは党務に戻ることが出来ず、ソ連は混乱に陥る。何ら対応ができていないソ連軍はレニングラード防衛の ためにありったけの師団や士官学校生とまでもを前線に投入したうえ、国民放送により志願兵を募った。2時間で1500人もの志願がある。その指揮を取って いたのはレニングラード方面軍司令官ヴォローシロフ元帥、参謀長のゴロジェスキー大佐、政治委員のジダノフであった。 
 レニングラード在の女学生ベラと共青同の学生アナトーリはバカンスで西方の街へ行っているところで独ソ戦に遭遇し、レニングラードへの帰還途中でドイツ 軍に捕らえられてしまう。アナトーリは秘密警察からの伝言を頼まれ、からくも脱出するが、ベラはドイツ兵に強姦されてしまう。なんとかレニングラードに 戻ったアナトーリだが建築家の父との確執で、軍に志願することに。建築家の父もまた老兵ながら工兵として志願する。
 迫り来るドイツ軍戦車隊に対抗するため、ソ連軍はレニングラード南面のルガ川に防御戦を構築する。陣地構築には工兵に加えて市民全員が参加した。そこ で、ゴロジェスキー大佐のもとにいたアレクセイ少佐は前線から退却してくる大隊長に「退却するなど恥を知らぬのか」と叱責する。叱責された大隊長は中尉の 肩書きである。本来の大隊長、中隊長が皆戦死してしまった結果である。ソ連軍の総力戦、不退却の精神論が見て取れる一幕だ。
 レニングラードの象徴でもあるキーロフの戦車工場でもまた、工員の半数が義勇兵師団へ志願した。ここの工員であったベラの父も義勇兵師団の政治委員とし て徴兵された。
 ルガ川防衛作戦はピャーディシェフ大将の指揮下で、ペトロザポック予備師団、北部国境守備にあたっていた第10機械化部隊から2個師団、レニングラード 陸軍士官学校生と、砲兵連隊、高射砲隊、戦車隊に義勇兵師団を加えて組織された。工兵隊や義勇兵師団はカービン銃と少数の機関銃しか持たなかったが、絶対 に撤退するなと厳命された。
 いよいよ独軍ダンビッツ少佐率いる戦車隊とルガ川防衛ソ連軍との戦いが始まった。防衛隊は工兵隊の地雷攻撃や、モトロフの火炎瓶攻撃で幾度も戦車隊を撃 退する。突破の危機に際してもソ連軍戦車隊が駆けつけるなど一進一退を繰り返すのであった。

 第2部
 ルガ川防衛線の背後にドイツ軍落下傘兵が降り、アレクセイ少佐は負傷する。その看護に駆けつけたのはベラだった。ベラはなんとか生きて逃げてきたのだっ た。
 ドイツ軍はルガ川防御戦を一部突破し、レニングラード市街に迫ってきた。市街の空爆や砲撃は激しさを増す。一部は市街地の市電通りまで到達した。市電を 占拠したドイツ軍に対し、電車を発車させてドイツ兵を轢き殺す運転手には圧巻だ。もちろん、即座に乗客もろとも射殺されたが。
 スターリンは膠着状態のレニングラードに腹心のジューコフ大将を送り込んだ。レニングラード方面軍司令官にヴォローシロフ元帥に代わってジューコフ大将 が、参謀長はゴロジェスキー大佐に変わってホジン中将、さらにフェジニンスキー将軍が指令代理となった。いわば、更迭人事である。
 ジューコフはそれまでの作戦を一新し、兵力の平均から重点防御に、さらなる志願兵募集で5個師団徴用、高射砲を対戦車用に転用するなどした。42軍と 55軍を南部防御に回し、ウリツク市へ21師団を投入した。
 負傷から癒えたアレクセイ少佐は前線復帰を希望し、キーロフ工場のバリケード構築任務を命じられる。「私は前線に行きたいのです」というアレクセイに、 ジューコフは「キーロフ工場はもはや前線である」と答える。
 プルコボ高地にまで後退したソ連軍だが、ドイツ軍レープ元帥の性格から正面攻撃をとらずに迂回作戦と読んだジューコフは、プルコボで迂回したドイツ軍に 反撃をかけ、ドイツ軍を撃破する。この戦いで、前の大戦で武功のあった兵士や、ソ連海軍の陸戦隊兵士らの突撃は圧巻だ。まさに、人海戦術そのものだ。
 これにより、ドイツ軍はもはや正面攻撃は無駄と判断し、レニングラードの封鎖作戦に移っていく。

 第3部
 1941年の冬を迎える。ドイツ軍の封鎖網はラドガ湖部分が抜けており、レニングラード市民にとっては唯一の「生の道」補給路であり、避難路であった。 しかし、そ れもドイツ軍の砲撃等により途切れがちとなり、ついには完全に水上交通も封鎖されてしまう。たちまち軍は弾不足、市民は食糧不足に陥ってきた。配給は減ら され、電気も止まる。
 9月から10月にかけて、レニングラード方面軍はラドガ湖に接するネヴァ河左岸、ネフスカヤ、ドゥプロウカ付近の死守を図る。特に、ヴォルホフ戦線は重 要で、チフヴィンの町が敵に墜ちるとレニングラード封鎖網が完成してしまうのだ。アレクセイ少佐はヴォルホフ戦線に派遣され、前線で指揮を取る。押し寄せ るドイツ軍戦車隊を決死の抵抗で追い返す。
 レニングラードの町では寒さと飢えにより死者が続出する。1日で死者が6000人を超えることもある。配給のパンは一人250gである。
 さらに寒さが進み、ラドガ湖が凍るとついに決死のトラック隊が氷上輸送路を確保する。これにより、ほんの少しだが、食料や弾薬の補給ができるようになっ た。

 第4部
 1941年12月、アレクセイ少佐はレニングラードに戻され、防衛拠点づくりの任務に就く。また、再会したベラに求婚するが、ベラのいた病院が爆撃に あってしまう。建築家のアナトーリの父は請われてラジオ出演する。市民の生きる希望を持たせるためだ。
 1942年4月、レニングラード方面軍司令官にゴヴォロフ中将が就任。レニングラードの要塞化が使命だ。すでに、人員も資材も乏しいがそれでも市民総出 で防御施設造りにいそしむ。
 8月の攻勢で、ドイツ軍の司令官マンシュタインはもはやレニングラード攻撃の力を失ってしまう。これを機に、ソ連軍は1943年1月12日、ドイツ軍に 対する総攻撃「イスクラ作戦」を開始する。レニングラード方面軍とジューコフ率いるヴォルコフ方面軍が西部のドイツ軍を挟撃するのだ。ソ連軍はネヴァ河を 突破し攻め入るが、窮地に追い込まれたドイツ戦車隊ダンビッツ少佐は老人、女子供を先頭に立てて進軍する暴挙に出る。これは、アレクセイ少佐の身を挺した 機転で切り抜け、逆にダンビッツ少佐を捕虜にする。
 捕虜になったダンビッツ少佐の「戦争初期は喜んでドイツ軍に協力したロシア人もいたのだが・・・」という言葉をたまたま聞いたアナトーリは、ベラを見捨 てた自分の行為を恥じて、自ら地雷原に足を踏み入れ爆死してしまう。
 こうしてソ連軍の反撃は進み、1943年2月にはレニングラード市内に列車が入る。1944年1月14日ソ連軍の反撃は終了し、レニングラードは900 日の包囲から解放されたのだった。

 この作品は数人の主人公の行動をメインに描いているが、その辺はどうでも良い映画だ。記録映画としてレニングラード守備のためにソ連軍と市民がどのよう に戦ったかを知ることができる。むろん、ソ連制作なので、歴史の美化や歪曲は多分にあろうが、それを差引いて見ても十分戦記としての価値はある。そういう 視点で見ると、物語的な面白さは1部と4部にある。特に1部は人的な動きが面白い。それに比して2部、3部は物語的な展開に面白みはないが、レニングラー ド守備作戦や反撃作戦の過程を知る上で、軍人や共産党がどのように動いたかを知る上で大変興味深い。
 4部の後半の方は、共産党、共産主義者の賛美アジテートが続き、ちょっとうんざりする。このあたりでプロパガンダ的要素が伺える。とはいえ、すでにス ターリン批判が起きているソ連であり、スターリンの人格否定やこき下ろしは顕著に見られないが、あくまで戦争に勝ったのは共産主義者である市民と労働者の 戦いにあったと言いたいのであろう。

 登場する兵器は戦車が多い。ダンビッツ少佐の搭乗する戦車は一見ティーガーII戦車に見える。ほとんどが迷彩を施してあり、履帯周辺の形状から見ると T54かT62あたりの改造のようにも見えるが、もっと古い戦車かも知れない。兵員輸送車はほとんど無改造のBTR-152V6輪装甲兵員輸送車でフロン トボンネットに鈎十字の旗をかけて誤魔化して(?)いる。
 第1部に登場するソ連側の戦車はIS-3重戦車そのままである。1945年登場のIS-3では時期的には合わないが、最も近い現存戦車と言うことなのだ ろう。第3部に登場するソ連軍戦車はT34/85の改修型のようだ。実写シーンではT-34/76がパレード行進している。

 映画中に何度も出てくるピアノの曲は、かなり耳に付くが、包囲中に作曲家のショスタコビチが書いて市に献呈した、交響曲第7番ハ長調「レニングラード」 である。レニングラード市民の不屈の精神と勝利への意気込みが感じられる。爆弾の落ちる戦時下であっても堂々と音楽会を開催する不屈の精神と文化性の高 さ?を強調したかったのであろう。

 なお、当時レニングラードの人口は約300万人。死者は67万人とされうち餓死者は64万人に登る。市民の半数ほどは疎開しているから、半数近くが餓死 したということになる。映画の最後に、と現在(1978年当時)のレニングラード市街に設置された記念碑が映し出される。
 映画の後半で労働者から共産党への投稿文で「パリは無血で開城した。レニングラードも開城すべきでは」というのがあり、共産党や労働者たちは「裏切り 者!我々は徹底抗戦する」と叫ぶシーンがあったが、ほとんどスターリンによる洗脳で死を選んだ彼らの行動は果たして正しかったのか。共産主義賛美の光景 は、降伏(捕虜)や撤退を絶対に許さなかったソ連軍の恐怖支配の裏幕でもある。

(2004/10/04)

興奮度★★★
沈痛度★★★★★
爽快度★★
感涙度★★★

 DVD
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