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かぽんの戦争映画一方的評論
 

「ロングウェイホーム 遙かなる故郷 イスラエル建国の道 評価★★★ ユダヤ人の歩んできた道のドキュメント 
THE LONG WAY HOME
1997 アメリカ 監督:マーク・ジョナサン・ハリス  ナレーション:モーガン・フリーマン  
119分 カラー

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 第二次世界大戦時におけるユダヤ人迫害の歴史から、ユダヤ人国家イスラエル建国に至るまでのドキュメンタリー映画。当然のことながら、重苦しい映像が中 心であり、迫害され続けてきたユダヤ人の生き様を見ることは実に息苦しいものがある。製作はアメリカであり、若干アメリカを贔屓目に作られている感はある が、ユダヤ人側のみならず、各国の対応など歴史的事実を客観的に捉えた秀作と言えよう。
 ドキュメンタリーであるため、記録映像と語り、インタビューで構成され、119分という時間はかなり長く感じられる。特に前半部分はダレた印象が強かっ たが、後半の急展開していく様子はかなり引き込まれた。
 そもそも、私(日本人)にとってユダヤ人問題は縁が薄く、知識にも乏しいため、今ひとつ感情的には移入できないのだが、本映画を通してイスラエル問題に ついて色々な側面を垣間見ることが出来た。しかし、全編を通して思ったのは、ユダヤ人は何故これほどまでに嫌われているのか。ユダヤ教とキリスト教の確執 というだけではなさそうである。とかく虐殺したドイツばかり がクローズアップされるが、史実上ではポーランド、ソ連においても激しいユダヤ人排斥・虐殺が行われている。また、パレスチナ問題を長く引きづったイギリ ス、そしてアメリカを含む欧米諸国が基本的にはユダヤ人を毛嫌いしていることが良くわかる。
 映像を通してみても、ユダヤ人の異常なまでの土地への執着と同族意識は恐ろしいまでのものがある。頑なまでの帰属意識と、鬱屈した感情と行動パターン は、日本の隣国の半島民族を連想させるものがある。これが虐げられたものの性分なのか、はたまた生まれついた性分が故に引き起こされた惨劇なのか。いずれ にせよ、宗教観、人種観、土地問題のいずれをとってみても、ユダヤ人への危機感と恐怖を他国・他民族が感じていたということなのであろう。虐殺の歴史を経 たユダヤ人への哀れみはあるが、こうした差別や紛争を巻き起こす要因となる、宗教・人種のこだわりが、いかに深淵で混沌としているのかを肌で感じ取ること ができる映画である。
 もう一点、アフリカ、アジアの植民地政策を行っていたイギリスの身勝手さと、無責任さもクローズアップされている。いくら戦勝国とはいえ、やっているこ とはナチスドイツと大差ないということを改めて実感した。また、アメリカの優柔不断な対応、そして事なかれ主義も世界の混乱を招いている一つの要因である ことも良くわかる。

興奮度★★
沈痛度★★★★★
爽快度★★
感涙度★★


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(以下あらすじ ネタバレ一応注意)

 1945年、ドイツの敗戦と共にドイツ、ソ連、オーストリア、ポーランド国内に収容されていた虐殺から免れたユダヤ人が解放される。しかし、もともと 反ユダヤ感情の強いドイツ、ポーランド等でユダヤ人が我が家に戻ることは叶わず、解放とは名ばかりで、ユダヤ人難民キャンプがヨーロッパ各地にできあがっ た。実態は、殺されないだけのナチ収容所であり、敗れたドイツ人の方がましとの声さえあがる。
 ユダヤ人がエレツ・イスラエルと呼ぶパレスチナは、ユダヤ人とアラブ人の紛争に加え、石油資源の権益を掌握したいイギリスによって分割委任統治されてい た。
 イギリスのチャーチルに変わって首相となったアトリーは、ユダヤ人のパレスチナ移民を許さない厳しい政策をとり続ける。アメリカの人権調査団体は、難民 収容所の悲惨な状況を報告し、アメリカ大統領トルーマンは、アトリーにパレスチナ移民を認めるよう要請するが、パレスチナの権益をユダヤ人に渡したくない ために拒否する。また、ドイツ国内での収容所管理をまかされていたパットン将軍もまた、「ユダヤ人は下等だ」と言を憚らず、キャンプの待遇改善には否定的 であった。
 これに対し、ユダヤ人地下過激派組織「イルグン(ポーランド系のベギンが指導者)」「シュテルン(シャミルが軍事リーダー)」「ハガナ」の3組織は手を 結び、パレスチナにおいてイギリス軍事施設への破壊テロ活動を活発化していく。
 一方、ソ連やポーランドなどの東欧諸国でも共産主義国家の確立と共に、ユダヤ人への迫害がひどく、ユダヤ人はドイツへの脱出を図るようになる。この脱出 を手引き支援したのが「ブリハ」というアメリカ人等からなる組織である。
 1945年12月になって、ドイツ戦犯裁判が始まってもなお、ユダヤ人難民キャンプの惨状は変わらなかった。パレスチナへの移民も認められず、次第にユ ダヤ人は「シオニスト」運動へ傾倒していく。収容所には10数カ国出身のユダヤ人がいたが、強い結束力でユダヤの伝統を守っていく。
 1946年1月には難民合同調査委員会が発足し、ヴァイッマンが世界シオニスト連盟総裁として活動する。しかし、一向にイギリスはパレスチナ移民を認め ない。この時点で難民キャンプの97%がパレスチナ行きを望んでいる。残りの3%の希望は「墓場」だ。許されない移民であっても、「ブリハ」「ハガナ」な どの支援のもと、ユダヤ人はパレスチナへの密航を続けた。ドイツから雪のアルプス山脈を超え、密航船でパレスチナへ向かった。1946年だけで63隻、9 万人のユダヤ人がパレスチナに向かったが、成功したのは6隻だけであとはイギリス軍に拿捕された。捕まった難民はキプロス島の収容所に送られた。
 アメリカ政府や調査委員会はアトリー首相に10万人をパレスチナに移民させるよう強く迫るが、アトリーは「「ハガナ」を解体させることが条件」とし、ア メリカに対しても「ニューヨークのユダヤ人を減らしたいだけなのではないか」と否定する。確かに、アメリカも移民禁止措置を実施中であり、国内世論でもユ ダヤ人=共産主義(アカ)とされることも多かった。さらに、ヨーロッパの共産化を恐れ、戦犯国ドイツの戦後経済復興に支援し、イタリア・オーストリアに 4400万ドルの支払いをしたのに、ユダヤ人難民キャンプへの資金援助はイギリスの反対で打ち切られていた。
 強い閉塞感と怒りに燃えるヘブライ抵抗運動は対英テロを激化させる。対抗してイギリスもパレスチナに8万の軍と2万の警察官を派遣した。1946年6月 29日の「黒い安息日」にイギリス当局はユダヤ人拠点を捜索し、2,178人の活動家を逮捕した。「イルグン」のベギンは反攻を決意し、パレスチナの英国 軍司令部を爆破し多数の死傷者を出す。こうして英軍の対テロ消耗戦が始まっていく。
 1946年7月4日、ポーランドのキエルツェで200人のユダヤ人虐殺が起こる。9歳の少年の告発により反ユダヤの暴動が起きたのだ。これを機に、アメ リカはラビを派遣し、現地の主要人物と面会調査をさせる。その結果、
(1) 在ポ米大使「愚かなユダヤ人は問題ばかり起こす」
(2) カトリック枢機卿「殺されるのも自業自得だし、彼らは共産主義者だ」
(3) ポーランド首相「気持ちはわかるが、ユダヤは米軍のいるドイツに逃げた方が安心できるだろう」
(4) ユダヤ人共産党首「ユダヤ人の歴史は虐殺の繰り返しだ。殺されたからといって今更さほどのことではない」
と述べている。もはや、ポーランドで一般ユダヤ人を擁護するものはいなかった。この報告を受け、トルーマンはあえて、国境警備を緩める。その結果、9万人 のポーランドのユダヤ人がドイツやオーストリアに流出した。
 1947年になり、ようやくユダヤ人のアメリカ移民が許される。しかし、アメリカ人は無理解だった。冷たい仕打ちに次第にユダヤ人は沈黙していく。一 方、パレスチナでは対イギリステロが続いており、ついにイギリス外相のベビンが「パレスチナ問題を国連に委ねる」と発言する。
 国連にパレスチナ問題が委ねられたとはいえ、諸国の利害関係からユダヤ人にとっては不利と思われていた。しかし、意外にもソ連大使の「西欧諸国はユダヤ 人虐殺を救えなかった。ゆえにユダヤ人国家の可能性を検証すべきだ」との発言で、一気にユダヤ人国家建設への機運が高まっていく。(ただし、この発言はソ 連もまたユダヤ人虐殺を行っていた事実を隠蔽した発言ではある(筆者註))
 国連は中立国の11名によるパレスチナ特別委員会を設立する。しかし、国連委任を行っているにも関わらず、イギリスはユダヤ人のパレスチナ密航を武力で 取り締まり続ける。英国は巡洋艦で密航船ハガナ・エクソダス号に砲撃を加え、死者を出したうえ、フランスにユダヤ人を送り返した。しかし、フランス政府は 希望する者以外は上陸させない方針を貫いた。もはや、イギリス政府の味方もいなくなっていたのだ。
 国連のパレスチナ特別委員会では、パレスチナをアラブ、ユダヤ二分割し、エルサレムを共同管理する案が提案された。アメリカのトルーマンは賛成であった が、国務省、国防省は反対であった。慎重な根回しの結果、ついに1947年11月29日、賛成33、反対13、棄権10でこの案は可決された。
 アラブ側はこれに対し、何故ヒトラーの尻ぬぐいをアラブがするのかと猛反発し、対ユダヤテロを激化させていく。イギリス軍はまだ駐留していたが、この仲 裁を拒否する。
  1948年5月14日イスラエル建国宣言がなされる。しかし、この時アメリカのトルーマンはすぐさま宣言を認めるが、政府自体はユダヤ人に背を向けはじめ ている。イギリスも撤退を完了し、イスラエルには関与しない姿勢である。600万人が虐殺されたユダヤ人は、ついに母国を手に入れるが、これから先にイス ラエル独立戦争、アラブ中東戦争など苦難の道は続いていくのであった。

(2005/04/15)