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かぽんの戦争映画
一方的評論
 
「フィデル・カストロ×キューバ革 命  評価★★★ フィデル・カストロのドキュメンタリー
THE AMERICAN EXPERIENCE FIDEL CASTRO

2005
  アメリカ 監督:アドリナーナ・ボッシュ
出演者:ドキュメンタリー
115分 モノクロ&カラー 

  
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 キューバ革命、キューバ建国の礎となった前評議会議長フィデル・カストロを題材にしたドキュメンタリー。記録映像のモノクロと関係者証言のカラーを混ぜ た映像で構成され、カストロの生い立ちから現在に至るまでを、ほぼ時系列に追っていく。
 かなり盛りだくさんの内容のため、事象の展開はかなり早く、次から次へと登場する証言者の数も20人近くに上る。正直言って画面の字幕を追いかけるのが 精一杯。背後に映る記録映像も実に貴重なものではあるのだが、1回の視聴ではなかなか掴みきれないだろう。記録映画としての作り方、編集の仕方はお世辞に もうまいとは思えない。視聴者をぐいと引き込む魅力も、起承転結もほとんどない。だが、最後まで画面に釘付けにされたのは、やはりフィデル・カストロの波 瀾万丈の人生の魅力なのだろう。そういう意味で、本作はドキュメンタリーとして良作だったと言える。

 記録映像中のフィデル・カストロの多くはキューバ革命以降のものが大多数だが、若き頃のカストロは思ったよりも太っている。現在の髭じいさんの姿に至る までの過程がよく分かるのが面白い。
 元スペイン軍人だった父アンヘルの息子フィデル・カストロの誕生から始まる本作は、カストロの人となりを理解するには良作だ。かなり素早い展開の映画な がらも、細かい部分までしっかりと描写しているので、なんとなくでも理解できてくるのだ。
 特に、彼の幼少期の逸話は興味深く、私生児(メイドの子)として生まれたフィデルが、ラウルを含む3人兄弟揃って乱暴者で学校を退学になったり、「変 人」というあだ名をつけられたり、自転車のチキンレースで壁に激突して気絶するなど、相当な粗暴者であったことが明かされる。また、弁護士になるなどかな りの秀才ではあったが、家庭を顧みない、他人に感情移入できないタイプでもあったようだ。これらが、フィデル・カストロの革命人生を作り上げた人格の一部 なのだろう。
 また、女性関係では愛人ナタリーと妻ミルタへの手紙が看守の手違いで反対に渡ってしまったことも明かされる。
 キューバ革命闘争中については、他の映画等でも詳しく描かれており、それほど目新しい内容はないが、キューバ革命以降についての描写は再び詳しくなる。 特に、アメリカのニクソンやケネディとのやり取り、ソヴィエトのフルシチョフ、ゴルバチョフとのやり取りが興味深い。
 国民の前で、権力や地位、金銭にはこだわらないと宣言したフィデル・カストロだったが、結局選挙を実行せず、権力に固執していく過程が手に取るようにわ かる。思うように経済政策が立ちゆかず、理想と現実の間で葛藤、大国の権力に反抗しながらも、自らは国民に権力を行使していく矛盾。そうしたものがフィデ ル・カストロに波のように押し寄せ、次第にフィデルの表情に疲労と絶望の色が漂ってくる。アメリカ、ソヴィエトに次いで「第3の大国」として世界に影響を 与えようとする野望は、いつしか空回りしてゆき、世界各国のみならず、国民からも背を向けられていくのだ。
 結局、彼は1人で何でもしようとし、全てを掌握しようとしたのだ。「コマンダンテ(2003)」の中でもフィデルが語るように、誰も信用していなかったことが最大の欠陥だった。

 カストロ体制のキューバは今なお現存している。ドキュメンタリーは現在までの姿を描いているが、今後どうなっていくのか非常に興味をわかせる。本作はや やアメリカ寄りの内容ではあるけれど、カストロを評価する者にとっても、そうでない者にとっても十分に楽しめる内容になっているのではないだろうか。 キューバ史を知るならちょうどよい入門編と思われる。

証言者登場人物
C・A・モンタネール(作家)、G・ガイヤー(ジャーナリスト)、N・フエンデス(作家)、M・P・スタビレ(作家)、ジェームス・ブライト(国際関係論 教授)、ブライアン・ラテル(CIA分析官)、J・イグナチオ・ラスコ(級友)、「中国人」エスキュバル(学友)、ホルヘ・ドミンゲス(国際関係論教 授)、R・ディアス・バラート(義兄)、A・F・レブエルタ(娘 ナタリーの子)、R・ボフイル(人権擁護活動家)、W・レオグランデ(政治学教授)、カ ルロス・フランキ(ジャーナリスト)、H・マトス(革命指導者)、A・デュラン(退役軍人亡命者)、T・ナフタリ(作家)、A・イダルゴ(政府関係者)、 ウエイン・スミス(米国外交官)、A・オッペンハイマー(ジャーナリスト)


       

興奮度★★★
沈痛度★★

爽快度★
感涙度★

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(以下 あらすじ ネタバレ注意 反転でご覧下さい)

 (ドキュメンタリーの流れ)
 フィデル・カストロは、キューバ北東部のサトウキビ農園で、元スペイン軍人の父アンヘルとメイドだったリナ・ルスの私生児として生まれる。フィデル、ラ ウル、ラモンの3兄弟は乱暴者で、学校を退学になったりもするが、1941年には15歳でハバナのコレヒオ・デ・ペレンに入学し、田舎育ちの彼は「変人」 というあだ名をつけられる。学校では自転車のチキンレースを行い壁に激突して失神し、数日保健室で寝ていたという猛者でもあった。
 学校でファランヘ党のイエズス会士の影響を受け、1945年にハバナ大学法学部に入学。「栄光と名声が欲しい」と学生運動にのめり込んでいく。この頃の キューバは米国の支配下であり、銃がはびこる危険な場所であった。知的だが粗暴なフィデルも国粋主義の学者に感化され、米国批判をしながら、警官殺害や内 ゲバ殺人にも関与していたらしい。
 ハバナ大学在学中に19歳の名家の娘ルミタと出会い1948年10月に結婚し、新婚旅行はニューヨークであった。その後、ハバナで小さな弁護士事務所を 開設し、息子フィデリートが誕生。家庭を顧みない、他人に感情移入できないタイプであったフィデルは、政治活動にのめり込み、選挙に出馬することとなる。 当選確実とまで言われたが、1952年3月10日、バティスタによる軍事クーデターが勃発。地下に潜ったフィデルは1953年7月26日にモンカダ兵営襲 撃を、129人の男と2人の女で敢行する。しかし8人死亡し、多くは捕虜となり処刑されてしまう。フィデルも7日後に逮捕され、ピノス島の監獄に収監され る。監獄の中からフィデルはバティスタ政権打倒、民主選挙を謳い、民衆の支持を得ていく。その頃、モンカダ兵営襲撃前に知り合った医師の妻ナタリアに恋し ていく。1年後には不倫を知ったミルタと離婚協議する。
 1955年4月に恩赦により釈放。メキシコに亡命後革命活動の7月26日運動を開始。1956年11月25日に、82名の同志でグランマ号によりキュー バ上陸。政府軍に待ち伏せされ、壊滅状態となり18人だけが山中に逃げ込む。新聞はゲリラ全滅、フィデル死亡と書かれたが、3ヶ月後にアメリカ人記者マ シューズの取材により生存が判明し、カストロ伝説がキューバ内に広がっていく。
 都市部での反政府活動は凄惨を極めており、1957年3月には学生革命評議会のエチェベリアによってハバナ大統領府を襲撃するも失敗。7月26日には地 下組織バイスらが猛攻撃を開始するも死亡。次第に民衆はフィデルに期待を寄せるようになり、農村部でのゲリラ戦が主体となる。セリア・サンチェスらの協力 もあり、地下組織や敵対グループもフィデルに与し、フィデルはレーニンの国家破壊の理想をもとに、国民主体の共和制、選挙の実施、農地改革といったマニュ フェストを掲げる。
 1958年バティスタはフィデル暗殺のため1万人の兵を送り込むが、300人のゲリラの前に敗退。バティスタはアメリカの支援も打ち切られてしまう。シ エラ・マエストロ山を降りたフィデルらはサンタクララ、サンディエゴの都市戦を制し、1958年12月31日、バティスタは180名とともに亡命する。
 1959年1月2日、フィデルはハバナへ向かい、キューバ革命成功に沸く。国民は誠実な政府と選挙を期待し、フィデルも演説で「私は権力も金銭も求めな い。選挙も実施する。」と良いながらも、実際は権力の中枢に座り、選挙も実施しなかった。また、クーデターを恐れてゲバラ主導のもとバティスタ派500名 以上の処刑を実施し、国民もそれに賛同する大騒ぎとなる。2月16日にはフィデルは首相に就任する。
 1959年4月、フィデルはニューヨークを訪問し、アメリカ国民の歓迎を受ける。共産主義者との疑いを否定しつつもニクソン副大統領の選挙実施の要望を 拒否する。
  1959年5月17日、農地改革法制定。20万人の農民が土地を得るが、フィデルの農場も没収され、母親は激怒した。さらにマルクス主義を支持するプロパ ガンダが流され、ゲバラやラウルは各国の共産主義者と面会していた。この状況に同志だったマトス司令官(少佐)は反対し、職を辞そうとするが反逆罪で逮 捕。ゲバラらは処刑を求めるがフィデルは20年の禁固刑に処す。さらに、政府内の穏健派は辞職か亡命を余儀なくされ、ゲバラの中央銀行総裁就任など独裁色 が強くなる。一方で、家賃を半額にしたり、教育、医療の無料化、農村部への教師派遣による識字率向上などの施策も行われ、民衆の支持は高まっていく。
 1960年2月3日、ソビエトと協力した技術文化博覧会が開催され、ソヴィエトとの距離が密接となり、反対に米とキューバの関係は急速に冷え、フィデル はアメリカ資本の企業を排除し始める。アメリカはそれを非難し、1960年3月にはアイゼンハワーがCIAに工作指示、6月には米企業での石油精製を拒 否、10月には通商禁止措置、1961年1月3日には国交断絶に至る。国連でアメリカを批判するフィデルは、さらにソヴィエトのフルシチョフを頼ることと なり、石油等の交易を始めるが、それは支配者がアメリカからソヴィエトに移っただけのことであった。
 キューバの政治家や財産家の多くは亡命し、都市部の地下組織はフィデルと闘うこととなっていく。農地や工場の爆破テロ、中部エスカンブライの農民暴動な どが置き、フィデルは農民を強制移住させる。また、アメリカのケネディ大統領は、CIAによってグアマテラで亡命キューバ人による反カストロの革命者義勇 軍を訓練させ、1961年4月15日、B−26爆撃機の爆撃を皮切りに、4月17日ピッグス湾上陸を果たすも、72時間後には失敗して多くの捕虜を出す。 翌日、フィデルは公式に社会主義革命を表明し、反体制派1万人を逮捕するに至る。反逆罪は死刑だとして、フィデルの権力は益々増大していく。
 1961年11月、ケネディは弟のロバートにCIAによる破壊工作とフィデル暗殺を指示する。しかし、マフィアを利用した毒殺計画も失敗に終わる。
 1962年10月14日、フィデルはキューバ国内にソヴィエトの核ミサイル基地を設置。一気に米ソ核戦争の危機(キューバ危機)が発生し、危機は13日 間続く。フィデルからフルシチョフへの書簡に「社会主義を守る上で核が必要ならキューバが犠牲になってもかまわない」とあったと言われ、驚いたフルシチョ フはミサイル撤去を決めて、危機は回避されるが、フィデルはソヴィエトに不信感を抱く。ピッグス湾事件の代償としてアメリカは5,300万ドル分の食料な どを支払い、裏で米ソはキューバに攻め込まないこと等を密約する。こうしてフィデルはアメリカともソヴィエトとも距離を置き、反帝国主義活動を活発にして いく。欧米にもカストロの熱狂的な信奉者も多く、独自の社会主義路線を進めていく。
 一方、女性関係については秘密だったフィデルにも1961年に出会ったダリアとの間に5人の子がいることが判明する。
 1965年になり再びフルシチョフと会談し、ソヴィエトとの連携を結び、兵器等の経済交流を活発にする。その上で、中央アフリカやベトナムのゲリラ活動 を支援し、ゲバラはボリビア革命に巣立っていく。
 ソヴィエトのブレジネフ政権となると、折からの軍縮によりキューバにも圧力がかかるがフィデルは拒否。1967年4月には最後通告がなされる。その年の 10月8日にはボリビアでゲバラが逮捕され処刑される。
 フィデルは、自国の社会革命を目指し、停滞する共産主義経済の打開のため人間改革を目指す。学校や病院は充実するも、経済は限界で工場も稼働せず、品不 足が続く。また、芸術家やヒッピー、同性愛者に弾圧を加え強制収容所に送る。
 1968年3月には完全に資本主義を排除し、全てを国営化する。フィデルが全てを掌握し、全てを決定する体制となり、彼の来ないところでは何も決められ ない事態となる。これが失敗の原因となり、牛肉、コーヒーなどの生産にも乗り出すが、ことごとく失敗。サトウキビ生産も目標の1000万トンにはるかに届 かない850万トンが最高だった。
 経済の限界からフィデルはソヴィエトの介入を認める。ソヴィエトから年に60億ドルもの支援を受け、技術者1万人が訪れ、キューバ経済はソヴィエトが握 ることとなる。これにより1970年から77年には経済が回復する。
 アメリカのキッシンジャー国務長官との会談でアメリカとの和解の道が開けてくるが、アメリカはあくまで革命の輸出をやめるよう要請する。しかし、フィデ ルはポルトガル領アンゴラでのアンゴラ解放戦線(MPLA)の支援要請を受け、1976年にはキューバ軍1万5000人を送り込む。さらにニカラグアの反 政府軍も支援するなど、フィデルは第3の大国の役割を自認するに至る。
 1979年には非同盟諸国会議の長に就任するが、ソヴィエトのアフガニスタン(非同盟国)侵攻にあたり、ソヴィエトを批判できずにその威厳を失墜させて しまう。
 国内でもフィデルの独裁政治に不満が増大し、ペルー大使館亡命事件が発生し、3日間で1万人の亡命者が集まる。フィデルは反逆者として去る者は追わずと したため、アメリカマイアミ等に12万5千人の難民が発生する。
 アメリカのグレナダ侵攻に際してもフィデルはニカラグアを支援するが、この頃にはフィデルの人権問題が国連で取りざたされる。1987年3月には国連人 権委員会の査察があり、収容所や監獄での虐待等が明るみとなる。
 1989年、ゴルバチョフがキューバを訪問するが、1991年にはソビエト解体。ソヴィエトからの支援は途絶え、フィデルはまたもや孤独の身となるが、 社会主義を守れのかけ声の下、国民は生活を切りつめた生活を余儀なくされる。民衆の不満は増大し、フィデルは不満分子の海外輸出だとして海外渡航を認め、 亡命キューバ人が増大する。しかし、経済の貧困に耐えかね、ついに米ドルの流通を認めることに。これにより経済の復興が見られるが、かわりに不正や売春な どがはびこる結果となる。フィデルの魅力は次第に薄れていくが、アメリカの圧力に耐え抜いた英雄として世界で賞賛されるのだった。

(2009/01/22)