「善き人のためのソナタ」 評価★★★★☆ 旧東ドイツ国家保安省の監視員が目覚めたもの
DAS LEBEN DER ANDEREN /THE LIVES OF OTHERS
2006 ドイツ 監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
出演者:
ウルリッヒ・ミューエ、マルティナ・ゲデック、セバスチャン・コッホほか
138分 カラー
DVD検索「善き人のためのソナタ」を探す(楽天)
1989年のベルリンの壁崩壊まで存在した社会主義国家、ドイツ民主共和国(DDR)、通称東ドイツで、恐怖社会を作り上げた秘密警察(国家保安省)シュタージ(STASI)を題材にしたヒューマンドラマ。シュタージは、ドイツ社会主義統一党の独裁を維持するため、反抗分子や危険分子を徹底的に排除・監視するために組織され、正規局員1万9000人のほかに、密かに密告する非公式協力者(IM)が17万人も存在したとされる。こうした非公式密告システムは、北朝鮮、中国、旧ソヴィエトなどの共産主義国家には必ず存在するもので、自由や文化を徹底的に束縛し、さらには生命さえも脅かす恐怖の根元となっている。ベルリンの壁崩壊から20年近くになるにも関わらず、シュタージの存在はいわばタブーのようにされてきており、こうした映画等で公然と著されるのは珍しい。2006年度アカデミー外国語映画賞受賞。
今なお旧東ドイツ出身者と西ドイツ出身者の格差や差別は顕著であると言われるが、本作は主役のシュタージ所属大尉役を、東ドイツ出身で、自らも妻の密告でシュタージの監視を受けていたというウルリッヒ・ミューエが演じる。製作関係者にも東ドイツ出身者がおり、若き監督はシュタージに関する徹底的なリサーチをこなしたとされる。それだけに、演じられる内容は実にリアルで真に迫るものがあり、シュタージの呪縛から解放された東ドイツ出身者の傷ついた心と、それを融和させていこうとする社会の変革までを描くことに成功している。
本作は、詳細なリサーチによって製作されているが、ドキュメンタリーではない。実在した人物をモデルにはしているようだが、むしろ登場人物を普遍化することによって、視聴者を映画に同化させることに成功している。国家権力側であるシュタージ職員と監視対象となる文化人たちの構図は、まさに好対照で、東ドイツ国家の縮図でもある。シュタージはもちろん悪玉ではあるのだが、登場人物を単なる善玉、悪玉感で描いていないのも好感だ。
主役であるシュタージのヴィースラー大尉は、寡黙な中年男なのだが、我々自由主義社会の人間とは異なる無機的な人物を演じる。密告社会で誰も信じることが出来ず、一人孤独な暮らし。性欲のはけ口はシュタージ専属売春婦。システムの歯車として機械的に監視をこなすことだけが、自分の身を救うのだ。ひたすら、他人の性生活まで覗き続ける姿は、まるでストーカーか変質者のような気色悪さを覚える。もし、我々が社会主義国家に身を置いたら・・・、そんなことを想像させるおぞましい姿だ。
一方、監視対象の脚本家のドライマンと恋人である女優のクリスタらは、文化人らしく豊かな感情をもって行動する。しかし、それでいて体制の監視に怯え、時と場合によっては体制を利用するしたたかな生き方も見せる。西側文化への憧憬と自身のプライドが、監視という閉塞感の中、行き場のない葛藤として描かれる。
その血も涙もないヴィースラー大尉が、ドライマンとクリスタを監視していく過程で、次第に心の変化を見せはじめていくのだが、そのきっかけや行動は実に劇的だ。ドライマンの部屋から持ち出した東ドイツの芸術家ブレヒトの詩集。監視のヘッドホンから流れてくる、「善き人のためのソナタ」。この曲を本気で聴いた者は、悪人にはなれない、という言葉通り、大尉は溶けていく氷のように人間味を取り戻していく。体制に身を任そうとするクリスタを、一ファンとして思いがげず諭してしまう瞬間、彼のささやかな憧憬は、次第に命さえ厭わない大きな希望へと変わっていく。寡黙にそして時に雄弁に・・・。
ベルリンの壁崩壊後は、東ドイツ国民にとっては必ずしも希望ばかりではなかった。ヴィースラー大尉もまたそうであり、本作は感動的なエンディングで生きる希望を与える。淡々とした流れの中でサラリと演じられるこのシーンは、たった十数秒の出来事ではあるが、まさに旧東ドイツ国民の希望と未来を象徴しているかのようだった。
本作は、ヒューマンドラマとしてはかなり完成度が高い。登場人物の量や性格付けが適度で、無駄なシーンが少ない。無機的なシュタージと感情豊かな文化人の対比も鮮やかで、人々の刻々と変化する心境の変化も刺激的だ。主役のヴィースラー大尉役のウルリッヒ・ミューエは、最後まで一度も笑みを漏らさぬ寡黙で平凡な中年男を快演。女優クリスタ役のマルティナ・ゲデックは40歳過ぎとは思えぬ、妖艶でかつ存在感のある名演技。また、「善き人のためのソナタ」をはじめ、挿入される音楽はガブリエル・ヤレドの手によるもので、物語にマッチしている。2時間を超える作品にも関わらず、しっかりと見入ってしまった。
さらに、本作は政治的な題材としても完成度は高いと言える。詳細な国家保安システムについては解説されていないが、大臣、国家保安省部長(中佐)、局員である大尉の関係、シュタージの秘密監視の手法、それに怯えるシュタージ職員自身を含めた国民の動揺などが良く伝わってくる。
こうした意味で、本作は東西ドイツの融合を象徴する歴史的作品となったのではないだろうか。
興奮度★★★★
沈痛度★★★★
爽快度★★★
感涙度★★★★