モモテハイツ
 
私が小さい頃(幼稚園)、近所に「モモテハイツ」なるものがありました。モモテハイツは鉄条網に囲まれた草原で、遠くにはカーキ色のジープや兵隊が見え隠れしていたものです。
場所は、今の埼玉県和光市から朝霞市、東京都練馬区にまたがっていた米軍のキャンプドレイクで、モモテハイツのほかにネズパーク(根津公園)などの地区があったようです。ベトナム戦争真っ盛りの最中で、ここからベトナムに行った兵隊もいたのでしょうか。朝霞地区には戦前は陸軍予科士官学校があったそうです。
昭和30年代の後半から次第に接収地であるモモテハイツは返還がなされていたようですが、私の幼稚園頃にはまだ、米軍が駐留していました。
ある日、友人と自宅から徒歩で20分ほどにあるモモテハイツに行き、いつものように鉄条網の破れた所から潜入し、パステルカラーの洋風空き家で遊ぼうと思ったとき、中からカーキ色の軍服をきた大きな兵隊と、私と同じくらいの背丈の金髪の女の子が出てきました。向こうもびっくりしたけどこっちも大変びっくりしました。私たちは怒られるかと思い、逃げようと思いましたが、あまりの恐怖に動けなくなったのを覚えています。
「ヘイ」というかけ声で我に返ると、大きな兵隊(父親でしょう)がこちらを見ています。女の子は両手で大きな人形を抱えて心配そうにみています。父親は手にラッパを持っていました。ゆっくりと階段に腰を下ろすとラッパを吹き始めました。
私たちも草むらに腰を下ろして聞くことにしました。
しばらくして、父親と女の子は手を振って去っていきました。
私たちはしばらく呆然としていました。

それから数年後。小学生になった私は別の友人と自転車でモモテハイツに行ってみることにしました。しかし、その場所にはアパートや研究所が建ち並んでいました。あの、洋風の建物も鉄条網も兵隊も、もちろん金髪の女の子もいませんでした。あの時の兵隊と女の子はキャンプから撤収する最後に住んでいた家を懐かしみに来ていたのかも知れません。

今では、キャンプ跡地は,司法研修所、税務大学、公衆衛生院、理化学研究所,民間の住宅などに取って代わり、その面影を残すのは一部の留保地(12.8ha)と米軍アンテナ地区(12.3ha)と呼ばれる小さな接収地のみとなりました。
私も完全なる戦後世代ですが、小さい頃にほんのわずかに接した戦争の香りが今の私に影響しているだろうことは否めません。
ちなみに、モモテハイツでは夏になると花火大会を開催していました。自宅からも小さいですが、花火を見ることが出来たことを覚えています。この花火大会も小学校に上がる頃にはなくなっていったように記憶しています。
この他、やはり近くに遊園地「朝霞テック」というのがあり、プールに行った記憶があるのですが、40年代後半になくなったようです。

追記。モモテハイツの周辺には陸上自衛隊朝霞駐屯地、練馬駐屯地があります。現在でも、朝霞駐屯地からは夜のラッパが聞こえてきます。